本を読むということ

 私にとって読書というものは世界を知るための眼鏡であり望遠鏡であり、そして心を満たさんとする栄養であったように思える。

 思えば物心ついた時から言葉の通じぬ外国での暮らしを余儀なくされ、自分がふれることのできる世界というものはほんのわずかしか存在していなかった。

そんな中読書に耽るのは必然といえるものだったかもしれない。

 かつてはそこの廣い屋敷にて母と二人で暮らし、使用人を困らせる所謂「聞かんち」な子供であった。

 そんななか母はよく本を読み聞かせてくれた。特に「ディズニーのお話聞かせて」という絵本は本が擦り切れるまで読んだし、それ以降日本に帰ってきても多種多様な本を読んでいた。

 その当時は覚えていなかったが、祖父たちの話によると「まだ年端もいかぬ子供が広辞苑のような分厚い本を読んでいるさまは驚嘆に値した」と祖父の営業しているラーメン屋の常連客が私を見て言ったそうだ。

 先にも記した儚い羊たちの祝宴は、その時の世界を知る感覚、というよりその本の世界にのめりこむという感覚を思い出させてくれた。

 おそらくこれを皮切りとしてまた私の読書欲は再燃することだろう。

ほんの18年ほどしか保っていなかった熱が二十歳をしばらく過ぎた折に再燃するとは思ってもみなかった。

 これぞまさに「茶文禄」としてのもう一つの役割として担われることとなるのではないだろうか。